鈴木誠也の高校時代は最速148キロの二刀流!二松学舎での伝説

こんにちは。スポーツ・ダイジェスト・ネットの運営者のアキです。

メジャーリーグで大活躍中の鈴木誠也選手ですが、彼の原点である高校時代がどんなものだったのか気になっている方も多いのではないでしょうか。

二松学舎での当時の監督との心温まるエピソードや、苦楽を共にしたチームメイトや同級生との絆など知られざる過去がたくさんあります。

また、プロ入り前の2011年や2012年の東東京大会での激闘、とりわけ決勝や準々決勝で対戦した帝京や成立学園といった強豪の相手チームとのスコアボードの裏側など、鈴木誠也選手の高校生活に関する情報は見逃せません。

この記事では、そんな彼のルーツを深掘りし、皆さんの疑問をスッキリ解決していきます。

【記事のポイント】

  • 鈴木誠也選手が出身の二松学舎大学附属高校の特色とカルチャー
  • 最速148キロで通算43本塁打という高校時代の二刀流の活躍
  • ポテンシャルを引き出した市原勝人監督の指導と熱いエピソード
  • 投手から野手へと運命を変えたドラフト会議での指名の裏側

鈴木誠也の高校時代は強打の二刀流!原点に迫る

メジャーの舞台で世界最高峰の投手たちと対峙し、躍動し続ける鈴木誠也選手ですが、実は高校時代からすでに規格外の才能を発揮していたんです。

ここでは彼の母校の特色や、当時の圧倒的なプレースタイルについて、詳しく紐解いていきましょう。

鈴木誠也の出身高校は?二松学舍大付はどんな高校?

鈴木誠也選手の出身高校は、東京都千代田区九段南にキャンパスを構える強豪・二松學舍(にしょうがくしゃ)大学附属高等学校です。

高校野球ファンならご存知の通り、東東京の激戦区で常に上位に食い込む名門校ですよね。

ただ、全国の甲子園常連校によくあるような「ガチガチのスポーツ推薦エリートばかりを全国から集める」という特殊な環境というよりは、個性を重んじ、生徒一人ひとりの持ち味を伸び伸びと育む校風が特徴なんです。

実はこの二松学舎大付、野球だけでなく非常に多様なジャンルで著名人を輩出しているんですよ。

例えば、声優のチョーさん(1980年卒業)や、ラジオDJの酒井道代さん、漫画家の竹田エリさん、作曲家のマシコタツロウさんなど、芸術やエンターテインメントの世界で一芸に秀でた才能を発揮している先輩たちがたくさんいます。

ある卒業生が広報誌で「あがいて、もがいて、なりふり構わず生き続ける」「どう創ろうが、君の自由」と後輩に熱いエールを送っていましたが、まさにこの泥臭くも圧倒的なエネルギーに満ちた表現者の精神性が、学校全体の根底に流れているんだなと感じます。

そんな自由でエネルギーに満ちた土壌があったからこそ、感情豊かで負けず嫌い、時に枠からはみ出しそうになる鈴木誠也選手の荒々しい「牙」を折ることなく、プロの世界でも堂々と渡り合えるスケールの大きな選手へと成長させたのかなと思います。

鈴木選手の同級生には、のちにプロ入りする竹安大知投手(1年夏に他校へ編入)がいましたが、それ以外にプロ予備軍のような選手がゴロゴロいたわけではありません。

普通の高校生たちと共に切磋琢磨し、グラウンドで泥まみれになりながら自らの才能を磨き上げたという事実が、彼の雑草魂をより一層強固なものにしているんです。

二松学舎という学校の器の大きさが、鈴木選手の才能を開花させる最高の舞台だったと言えるでしょう。

鈴木誠也は甲子園に出場している?高校入学のキッカケ

「メジャーでこれだけ活躍しているんだから、高校時代はさぞ甲子園でホームランを連発していたんだろうな」と思う方も多いかもしれませんが、実は鈴木誠也選手は高校3年間で一度も甲子園の土を踏んでいません。

これって意外ですよね!

中学時代は「荒川シニア」でエースとして活躍し、当時から全国の強豪40校以上からスカウトの声がかかっていたほどの逸材でした。

そんな中、なぜ甲子園から長く遠ざかっていた二松学舎大付を選んだのか。

本人の言葉を借りれば「親元から離れたくて、自立のため? いや、反抗期です。毎日ケンカばかりだったので」と、なんとも高校生らしい理由から実家を出て全寮制に近い環境を選んだそうです。

お父様が「勉強する暇があるなら走ってこい」と指導する、いわゆる「リアル巨人の星」のような厳しい環境だったため、そこから飛び出して自分の力で勝負したかったのかもしれません。

入学後は1年生から主力として活躍しますが、東東京大会の壁は厚く、激戦の連続でした。

特に検索されることが多い2011年秋の東京大会では、強豪・帝京高校と対戦し1-6で逆転負けを喫しています。

この試合、5回までは完璧に抑え込んでいたのに、終盤の7回に一挙5点を奪われるという悔しすぎる敗戦でした。

さらに2012年夏の東東京大会では準々決勝で成立学園に敗れ、最後の夏となる大会でも決勝で修徳高校の前に涙を飲んでいます。

開催年 大会名と進出ステージ 対戦校(相手)と結果
2011年 秋季東京大会 3回戦 帝京高校(1-6で敗戦)
2012年 夏季東東京大会 準々決勝 成立学園(敗退)
2013年 夏季東東京大会 決勝 修徳高校(敗退)

あと一歩で甲子園に届かなかったこの「敗北の記憶」は、彼にとって途方もない喪失感を与えたはずです。

しかし、この不完全燃焼感があったからこそ「プロの世界で絶対に見返してやる」という強烈なモチベーションへと変換されたのは間違いありません。

甲子園に出られなかったという事実が、現在のトップアスリート・鈴木誠也を生み出すマグマのような原動力になっているんですね。

【二刀流】高校時代は「超高校級の投手」だった!

今のシカゴ・カブスでの不動の外野手としての姿からは少し想像しにくいかもしれませんが、高校時代の鈴木誠也選手はチームの大黒柱となる**「エースピッチャー」**だったんです!しかも、単なるピッチャーではなく、1年生の秋から早くもエースの座をつかみ、マウンドで躍動する「超」がつくほどの高校級プレーヤーでした。

その球速は、なんと最速148キロを記録していました。

高校生で140キロ台後半のストレートを投げるなんて、プロのスカウトが色めき立つのも当然ですよね。

しかし当時の市原監督から見ると、鈴木選手のピッチングは「打つのも投げるのも走るのも粗かった。

力任せ、強引なところが目立ちました」という状態だったそうです。

それでも監督は、彼の持ち味である圧倒的なパワーとエネルギーを消さないように、「アウトカウントも考えような」と優しく諭す程度にとどめ、型にはめるような細かい技術指導はあえてしなかったと言います。

ピッチャーとしての実力も全国レベルでしたが、実は本人のプレースタイルや性格の「本質」が現れた面白いエピソードがあります。

ある練習試合で先発マウンドに上がった鈴木選手は、序盤で3〜4点を奪われてしまい、試合途中でセンターへのポジション変更を命じられました。

普通、強豪校のエースが試合途中で降板させられて外野に回されたら、プライドが傷ついて不貞腐れてもおかしくないですよね?

しかし鈴木選手は全く違いました。

センターのポジションへ向かっていく彼の後ろ姿は颯爽としており、足取りはとにかく軽快。

「やっとオレの出番が来たぜ!」と言わんばかりに嬉しそうに外野へと駆けていったそうです。

その姿を見た市原監督は「コイツはピッチャーじゃないな」と密かに確信したといいます。

広大なフィールドを自由奔放に駆け回る外野手こそが、彼の身体能力と本能を最も輝かせる場所だったんですね。

この瞬間が、のちにメジャーで最高峰の外野手となる彼のルーツを物語っています。

高校通算43本塁打!打者としても規格外のパワー

ピッチャーとして最速140キロの剛速球を投げるだけでも驚きですが、鈴木誠也選手のバッターとしての実績も全く引けを取りませんでした。

高校通算でなんと43本ものホームランを放っているんです。まさに漫画の主人公のような「エースで4番」の二刀流ですよね。

彼のバッティングの最大の特徴は、右手でバットを力強く押し込む技術が非常に高く、右打席からでも逆方向(ライト方向)へ大きな長打を打てることでした。

これは高校時代からすでに完成されつつあった彼特有の打撃センスです。

しかし、この強すぎる筋力と圧倒的なスプリント能力、全身のバネといった身体能力の高さは、時に彼自身の体を傷つけてしまうという「トップアスリート特有のパラドックス」をもたらしました。

急激に成長する筋肉のパワーに、骨格や腱の成熟が追いつかず、自己の強すぎる筋力によって自らの体を壊してしまうリスクが常にありました。

特に高校時代の彼を悩ませたのが「内転筋の肉離れ」です。

投球動作の急ブレーキや、フルスイング時の鋭い腰の回転、外野守備での急発進など、野球における爆発的な動作の要となる筋肉ですね。

2年生の春には右太ももの肉離れを発症し、夏の大会では本調子とは程遠い状態のままマウンドに上がり、準決勝でコールド負けを喫する悔しい経験もしています。

それでも、持ち前の圧倒的なパワーとポテンシャルは誰の目にも明らかでした。

実家の町屋の長屋には、お父様が手作りした練習場があり、そこで小学生の頃から徹底的にティーバッティングに取り組んできた基礎がありました。

深夜の暗闇の中で素振りをするほどの圧倒的な集中力とスイングスピードは、ケガというハンデを抱えながらも、高校野球の枠には全く収まりきらない異次元のレベルに達していたのです。

鈴木誠也が高校卒業時に迎えた運命のドラフト

高校生としてずば抜けた身体能力と、溢れんばかりの闘争心を持っていた鈴木誠也選手。

そんな彼をプロの厳しい世界へ真っ直ぐに導いた恩師の存在と、劇的なドラフト会議の裏側について詳しくお話しします。

恩師・市原監督との絆と高校時代のエピソード

鈴木誠也選手がトップアスリートへと羽ばたく上で絶対に外せないのが、二松学舎大付の野球部を長年率いる名将・市原勝人監督の存在です。

当時の鈴木選手は、単なる野球エリートではなく、非常に負けず嫌いで感情の起伏が激しい「やんちゃな一面」を持っていました。

練習試合であっても納得のいかない変な負け方をした時は激しく悔しがり、時には何かに当たり散らすほどの闘争心を剥き出しにしていたそうです。

日本の伝統的な学生スポーツ、とりわけ礼儀や規律が厳格に求められる高校野球の場においては、こうした感情の爆発は「和を乱す」として厳しく怒られ、徹底的に矯正されるのが普通です。

しかし、市原監督は全く違いました。

「高校生でしたからね。感情のコントロールはなかなか難しい。

でも、それが彼のエネルギーになっていた部分もあったし、私はそこが好きでした」と、彼の気性を真っ向から肯定してくれたのです。

市原監督は「今の高校生は妙にわかりがよすぎて物足りない」と語り、鈴木選手の剥き出しの自己主張こそが、プロの厳しい競争社会を生き抜くための必須条件だと見抜いていました。

監督は「私は誠也を育てたとは思っていません。彼が勝手に育ったんです」と謙遜しますが、この言葉の裏には深い愛情と信頼関係があります。

頭ごなしに怒るのではなく「本音で接し、信頼される大人になること」を心がけた市原監督の懐の深さがあったからこそ、鈴木選手は自らの情熱の矛先を見失うことなく、真っ直ぐに野球へとぶつけることができました。

のちに鈴木選手が大ブレイクを果たした後、二松学舎の野球部の後輩たちが「俺たちも誠也さんに続け!」と奮起し、甲子園の常連校へと成長していったのも、彼と監督が築き上げた熱い絆がチーム全体に波及した結果と言えるでしょう。

ポテンシャルを引き出した市原監督の指導方針

市原監督の指導の根幹を成し、鈴木誠也選手のその後のプレースタイルに最も大きな影響を与えたのが、「『牙(きば)』の部分はつぶさないように」という確固たる教育哲学です。

ここでいう「牙」とは、突出した自己主張や勝利への異常なまでの執着心、そして自分の能力に対する絶対的な自信のことです。

チームをまとめる指導者にとって、飛び抜けた才能や個性の強い選手の牙を抜き、扱いやすいように平準化してしまうのは簡単なことです。

しかし、高校時代に大人によって抜かれてしまった牙が、プロという弱肉強食の世界で再び生え揃うことはまずありません。

監督は、鈴木選手が将来メジャー級のスーパースターになることを見越し、あえてその「牙」を鋭く保ち続けさせました。

一方で、ただ甘やかすわけではありません。

「人間として当然のマナーや常識は教えなきゃいけない。そのバランスを取ることをいつも考えていました」と語る通り、社会で生きていくための最低限の「鞘(さや)」を提供するという、極めて難易度の高い指導を日常的に行っていたのです。

また、監督の先見の明は「ケガの管理」にも表れていました。

鈴木選手が内転筋の肉離れを起こした際、目先の公式戦の勝利を優先して無理やりエースとして登板させるようなことはしませんでした。

「ケガをすると長引くので、無理をさせないように私が気をつけていました」と語る通り、彼の計り知れない未来の価値を理解し、厳重に保護したのです。

「ケガさえなければ、もっと活躍できたでしょうね」という監督の述懐からは、彼を万全の状態で甲子園の舞台に立たせてあげられなかった悔しさと同時に、高校時代に体を壊すことなくプロの世界へ送り出せたという指導者としての安堵感が痛いほど伝わってきます。

メジャー級の「強肩」を育んだ高校時代の練習

鈴木誠也選手の代名詞といえば、メジャーリーグの強打者たちをも震え上がらせる「レーザービーム」のような強肩ですよね。

遠投115メートルという規格外の肩の強さは、高校時代からすでに群を抜いていました。

では、さぞかし厳しい猛練習を重ねてその肩を作り上げたのかと思いきや、実はご本人曰く「高校時代は練習が大嫌いだった」のだそうです。これにはちょっと驚きですよね。

「僕は野球が単純に大好きで、試合に出るのは楽しかった。

バッティングやスローイングの練習は好きでしたけど、ティーバッティングやランニングは大嫌い。

ウエートトレーニングも全然やっていなかった」と後年に述懐しています。

練習中にこっそり手を抜いているのが市原監督にバレて「しっかりやれ!」と怒られても、「いやあ、すいません〜」とうまくはぐらかしていたという、なんともお調子者で高校生らしいエピソードも残っています。

しかし、高校3年の夏の大会が終わり、甲子園出場の夢が完全に絶たれた後、監督からの一言が彼の野球人生を変えました。

「見ている人はちゃんと見ている。今しっかり練習しないと、プロに入ってから使ってもらえないぞ」。この言葉を受けてから、渋々ながらも真剣に練習に向き合うようになったそうです。

本格的に練習の虫になったのはプロ入り後。先輩たちの次元の違うレベルと圧倒的な練習量を目の当たりにし、深夜に寮の室内練習場で照明も点けずに素振りをするほど、練習に対する意識が激変しました。

お父様の「目の前の野球に集中しろ。そうすれば何とかなる」という教えを胸に、嫌いだった地道なトレーニングにも少しずつ向き合い始めた高校時代終盤の経験が、あの強靭な下半身とメジャー級の「強肩」を支える重要な土台になったことは間違いありません。

投手から野手へ!運命を変えた2012年ドラフト会議

そして迎えた2012年10月25日。

鈴木誠也選手の運命を大きく変えるプロ野球ドラフト会議が開催されました。高校通算43本塁打を誇り、最速148キロのストレートを投じる超高校級の「二刀流」として注目されていた彼は、ここで人生の大きな決断を下すことになります。

それが、エース投手としての道を封印し、「野手」としてプロの世界へ足を踏み入れるという決断でした。

(出典:日本野球機構『鈴木誠也 個人年度別成績』)

この野手転向という選択は、のちに彼がNPBで首位打者を2度獲得し、6年連続で打率3割・25本塁打という偉業を成し遂げるための重要なターニングポイントとなりました。

もしあのまま無理をしてピッチャーを続けていたら、高校時代からの懸念であった内転筋のケガがさらに悪化し、プロの厳しい長期戦のローテーションに耐えられなかったかもしれません。

ドラフト会議では、広島東洋カープから見事に2位という上位指名を受けました。

契約金は推定6000万円、年俸は600万円という条件でサインし、プロ野球選手としての第一歩を踏み出します。

そして、彼に与えられた背番号は、小さい頃からの憧れであり、同じ「鈴木」姓のスターであるイチロー選手と同じ「51」でした。

この背番号を与えられたことからも、球団が彼に対してどれほど大きな期待を寄せ、走攻守三拍子揃った将来のスーパースターとして育て上げようとしていたかがひしひしと伝わってきますよね。

ここから、世界を舞台に躍動する最強打者の伝説が幕を開けたのです。

広島東洋カープが「内野手」として2位指名した理由

鈴木誠也選手といえば、ゴールデングラブ賞を5回も受賞し、プロ野球を代表する「最強のライト(外野手)」としてのイメージが定着していますよね。

しかし、実は2012年のドラフト会議で広島東洋カープが彼を指名した際のポジションは、なんと「内野手」だったんです!これは多くの人が驚く事実かもしれません。

なぜエースピッチャーだった彼を内野手として指名したのか。

その背景には、広島の尾形佳紀スカウトの卓越した眼力がありました。

尾形スカウトは、鈴木選手のピッチャーとしての才能以上に、バッターとしての圧倒的な打力と、50メートルを5秒8で駆け抜ける俊足に惚れ込んでいました。

「この圧倒的な身体能力を毎日試合に出場できる野手として活かせば、とんでもない選手になる」と確信していたんですね。

入団直後は、球団の緻密な育成方針のもとで内野手として厳しい下積み経験を積みました。実は彼、2015年シーズンになるまで「本格的に外野の守備を教わったことがなかった」と語っているほどなんです。

内野での細かいステップワークやゴロ捕球の基礎を徹底的に叩き込まれたことが、結果的にのちの外野守備での一歩目の速さや、正確で無駄のないスローイングに活かされることになりました。

投手としての強肩、内野手としての俊敏性、そして天性の打撃力。
これら全てを融合させるために、球団が数年がかりで彼を「外野手」へとコンバートさせていった計画的な育成が見事に花開いたわけです。

1年目から2軍でレギュラーに定着し、9月には高卒新人ながら見事に一軍デビューを果たしてプロ初安打・初打点を記録するなど、カープの「内野手指名からの野手転向」という狙いは、驚くべきスピードで実を結ぶことになりました。

他球団のスカウトは鈴木誠也をどう評価していたか?

中学の荒川シニア時代から、数多くの強豪校からスカウトが殺到していた鈴木誠也選手。

高校に進学してからも、その底知れぬポテンシャルは当然プロ野球の各球団のスカウトたちの熱い視線を集めていました。

しかし、鈴木選手の同級生となる1994年生まれの世代(いわゆる「大谷・藤浪世代」)には、甲子園で春夏連覇を果たした大阪桐蔭の藤浪晋太郎投手や、花巻東でアマチュア球界を席巻していた大谷翔平選手といった、全国的に名前の知れ渡ったスーパースターたちがひしめき合っていました。

彼らと比べると、高校3年間で一度も甲子園に出場できなかった鈴木選手の知名度は、一般の野球ファンの間では決して高いとは言えませんでした。

それでも、プロのスカウトたちの目は誤魔化せません。

遠投115メートルの強肩、最速148キロのストレート、逆方向にも軽々とスタンドインさせる規格外のパワー。

これら全てを兼ね備えた彼の能力は「プロで十分に通用する逸材」として極めて高く評価されていました。市原監督が「スカウトはお前の能力の高さはすでに知っている。

見に来るのは野球に対する取り組み方や姿勢だ」とアドバイスを送っていたように、技術面での評価はとうの昔にクリアしていたのです。

甲子園に出場して全国のスポットライトを浴びることはありませんでしたが、それが逆に他球団の徹底的なマークを少しだけ和らげ、広島東洋カープが2位で単独指名できた要因の一つになったのかもしれません。

全国的には「無名の怪物」だった彼が、プロの世界に入ってから猛練習を重ね、大谷選手ら黄金世代に肩を並べ、やがて日本代表の4番打者としてチームを牽引するまでに成長していくストーリーは、まさに痛快そのもの。

スカウトたちが当時感じた「原石の輝き」は、決して間違っていなかったことが今、メジャーの舞台で証明されています。

総括:鈴木誠也の高校での歩みが現在の活躍の土台

ここまで振り返ってきて、鈴木誠也選手のメジャーリーグでの圧倒的な大活躍は、決して持って生まれた才能だけで成し遂げられた偶然の産物ではないことがよくお分かりいただけたかと思います。

彼のベースには、高校時代に経験した濃密な挫折と学びがしっかりと敷き詰められているのです。

帝京高校や成立学園といった強力なライバルたちに阻まれ、あと一歩のところで甲子園の土を踏むことができなかった悔しさ。

自分の筋力が強すぎるゆえに内転筋の肉離れを引き起こし、思い切りプレーできなかった歯痒い日々。

そして、試合に勝てない怒りや感情をコントロールできない未熟な自分自身との葛藤。高校3年間で蓄積されたこれらのネガティブとも思える「敗北の記憶」は、彼の中で決して腐らせることなく、プロの世界で頂点に立つための尽きることのないエネルギー(マグマ)へと昇華されていきました。

そして何より、そんな彼を型にはめることなく「牙を折らずに」見守り続けた市原監督との出会いや、二松学舎大学附属高校という個性を重んじる自由な文化的土壌があったことが最大の幸運でした。

マウンドでの挫折を機に外野手としての喜びに目覚めさせ、将来を見据えた徹底したケガの管理によって彼の肉体を保全してくれた指導環境こそが、今の強靭な肉体を作り上げたのです。

高校時代のこれらすべての出来事が複雑に絡み合い、極めて高度な化学反応を起こした結果として、今日の野球界を牽引するスーパースター・鈴木誠也が存在しています。

これからトップアスリートを目指す全ての若者にとって、彼の泥臭くも力強い高校時代の軌跡は、最高のお手本であり続けることでしょう。

これからも、メジャーの舞台でフルスイングを続ける彼の活躍から目が離せませんね!

※本記事に掲載している成績や記録等の数値データは執筆時点のものであり、あくまで一般的な目安としてご参照ください。
正確な情報は各競技連盟や公式サイトをご確認ください。
また、野球のトレーニング等に関する最終的な判断は専門家にご相談いただくことをお勧めいたします。
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